考色不鮮明なんて言ったものの

能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)の結合は恣意的である。
シニフィアンシニフィエも、ともに純粋に関係的、ないし差異的な存在体である。
してみれば両者の間に関係も差異も存在せず、「の如し」といった両者を関係づける語すら存在しない隠喩、換喩、諷喩といったものは存在しないことになる。
したがってすべての隠喩、換喩、諷喩といったものは、それがもし言語(ラング)または発話(パロール)によって表現された時、その概念は自律的に存在し始める。









BookOffで「夜のコント・冬のコント」見つけたので買いました。





その中の「レトリック騒動」から抜粋。





えと、、、要するに、なに?





いや、なんとなくはワカルよ!





だからさ、文字にはその文字としての意味と、その文字の持つ概念とか存在(?)としての意味があって。





それらには強い関係性やらなんやらあると。





んで、まぁ、だからそれが喩でも言えるとしたら、その喩がそのままの事実になる。





・・・って事でしょ?





え、わからない?





でしょうね。





どうせ、説明下手ですよっ!





自分では理解してる(つもり)だからいいし!





だからさー。





「緑」って文字には文字としての緑で、緑という色でもあるでしょ?





その関係性が喩にも言えたらみたいな。





「私はかごの鳥だ。」とか言っちゃったら、自分が鳥になってかごに入れられてしまう的な。





んで、それが全世界に受け入れられて。って話。





わかった?





え?二回も説明するな?





しかも分からない?





うにゃー!





でしょうね!わからないでしょう!





だって自分でわかってないもん!





あれ?





結局、何が言いたかったん?





わかんない!





もう、なんか・・・ダメ。。。